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駅伝オタクの自己満足

駅伝オタクの管理人によって2017年末に設立。自己満足で更新しつつ陸上ファンが増えることを願う日々。毎日更新予定

箱根駅伝。連続出場が途切れた瞬間・・・

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箱根駅伝。連続出場が途切れた瞬間・・・

今年の箱根駅伝予選会では明治大学が敗退し、伝統校と新興校の争いがますます熾烈になった。そこで今日は(箱根駅伝まで2週間ということもあるので)30回以上連続で箱根駅伝に出場していた大学の連続出場が途切れた瞬間について挙げていきたい
⓵2009年10月17日、順天堂大学

奇しくも筆者が初めて現地観戦をした大会である(目当てのチームは違うが…)
 福井の諸先輩方(木水良選手、唐川和宏選手、山崎翔太選手)が当日走るので予選会は突破するだろうと筆者はたかをくくっていた(予選会終了後木水選手、山崎選手が出走していなかったことを知る)現に15kmまでは出場権内にいたのだ。しかし戦況が悪化したのは15km以降である。選手がなかなかゴールに到着しない。他校の10人目の選手がゴールする中、ようやく10人目の選手がゴール。10人目の小高悠馬選手がゴールしたタイミングは全体の12番目である。当時、11大学が出場権を獲得できた。つまり12番目は際どいところであるということは誰もが思っていた。そして運命の結果発表。次々と大学名が読み上げられ、11番目に呼ばれたのは…
 「11位、法政大学
 この瞬間、箱根駅伝で過去11度の総合優勝、学生三大駅伝三冠(同年度に出雲駅伝、全日本駅伝、箱根駅伝全てで優勝すること)を果たした順天堂大学の箱根駅伝連続出場が52で止まった。最後の総合優勝からおよそ2年7ヶ月。今井正人選手世代の穴を埋めきれないまま、箱根駅伝から姿を消してしまうこととなる

②2010年10月16日、大東文化大学
山の大東」箱根駅伝を観戦したことのある人なら一度は聞いたことがある言葉だろう。現にこの2年前(第85回箱根駅伝)では5区と6区での好走から4位という大躍進を遂げた。ところが前年(第86回箱根駅伝)では5区と6区の経験者の卒業した穴。そして3区と4区での失速が重なり2年ぶりにシード権を失い、予選会に回ることとなった。シード権奪還を狙う大東文化大学からしたら予選会は通過点だったはずだ
 しかし現実は異なった。暑さのせいからかペースが上がらない。他校の1番手、2番手の選手がゴールする中、なかなかゴールに到着しない。チームトップの稲田康希選手がゴールしたとき時計は1時間2分を僅かに切るタイム。その後続々と選手がゴールし、10人目の篠田勝成選手がゴールしたタイミングは全体の7番目であった。当時、9大学が出場権を獲得できたため7番目は際どいところであった。そして運命の結果発表。次々と大学名が読み上げられ、9番目に呼ばれたのは…
「9位、専修大学
 この瞬間過去箱根駅伝で4度の総合優勝。学生三大駅伝三冠を果たしたこともある大東文化大学の連続出場が43で止まった。かつて「山の大東」と言われ箱根駅伝を盛り上げた伝統のライトグリーンのユニフォームは立川という檻に閉じ込められてしまうことになったのである

③2012年10月20日、東海大学
絶対的な2人のエースの最終学年。2人のエースとは村澤明伸選手と早川翼選手のことである。1年時からチームの中心選手として活躍し、2年時には全日本駅伝と箱根駅伝のシード権獲得の原動力となった。しかし3年時は村澤選手の調子が上がらず、早川選手も箱根駅伝では2年時のような好走ができずにシード権を失った。再起を誓う東海大学にとって予選会は通過点に過ぎないはずだった
 しかし試練が襲う。村澤明伸選手が怪我により出走しないこととなったのだ。絶対的なエースの欠場はチームに動揺をもたらしたに違いない。序盤は先頭集団に付く選手、第二集団にいる選手、第三集団にいる選手と分かれたものの、10km手前から失速する選手が続出してしまう。ペースダウンを止めることはできず、10人目の山本大輔選手がゴールしたタイミングは全体の15番目。当時、9大学が出場権を獲得できたため15番目は厳しいことを現している。そして運命の結果発表。次々と大学名が読み上げられ9番目に呼ばれたのは…
「9位、東京農業大学
 この瞬間「湘南の暴れん坊」と呼ばれ21世紀初の往路完全優勝を成し遂げた東海大学の連続出場が40で止まった。絶対的な2人のエースの最終学年に予選敗退。ここから方針転換を行うこととなるのである

④2016年10月15日、中央大学
箱根駅伝史上最多の優勝回数を誇る大学をご存知だろうか?中央大学である。第88回箱根駅伝まで28年間シード権を保持し続けていたこともある。しかし近年はシード権を獲得できず、もがき苦しんでいた。そこで監督として白羽の矢が立ったのが藤原正和監督である。藤原監督はチームの改革の1つとして当時1年生の舟津彰馬選手を主将に据えるという改革を行った。藤原監督体制、そして舟津主将体制になって初めての大きな戦いが第93回箱根駅伝予選会だったのである
 レースは暑さとの戦いになった。暑さの影響からかスローペースとなり、どのチームも前に出たがらない。そのため序盤からボーダー争いが繰り広げられ、
中央大学もその渦に巻き込まれる。終盤ペースを上げて抜け出そうとするものの、他校の選手も負けじと走る。10人目の鈴木修平選手がゴールしたタイミングは全体の9番目であった。しかし10番目だった拓殖大学と12番目だった日本大学はチームトップの選手が好走をしており予断を許さない状況であった(当時、10大学が出場権を獲得できた)そして運命の結果発表。次々と大学名が読み上げられ、10番目に呼ばれたのは…
「10位、
日本大学
 この瞬間大正時代から続いた
中央大学の連続出場が87で途絶えた。この87回連続出場という数字は勿論箱根駅伝の連続出場の中では最長のものである。かつて6連覇を成し遂げた「C」のユニフォームは大学史上3度目の箱根駅伝不出場という屈辱を背負い、一時代を終えることとなった

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