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駅伝オタクの自己満足

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明治大学の監督が山本佑樹氏に交代!

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明治大学の監督が山本佑樹氏に交代!

・監督交代の波が…
 1月4日、衝撃的なニュースが駆け巡った。箱根駅伝優勝7回を誇る古豪(=第二次世界大戦前に箱根駅伝優勝を経験しながら、往復完全優勝未経験の大学に付けられる呼び名)明治大学の監督が西弘美氏から山本佑樹氏に替わることとなったのだ。報道によると「西氏はGM(ゼネラルマネージャーの略。総監督に近い)として支えることとなる」

・西弘美さんはどんな人?
 明治大学の監督に就任前は日本大学の指導をしており、昨年末に最終回を迎えたドラマ「陸王」や2日に放送されたドラマ「都庁爆破」に出演した和田正人さん(Twitter:@daaaaaawaaaaaa)をはじめとした実力者を指導している
 実は高校卒業後、3年間は実業団で競技をしておりニューイヤー駅伝にも出場している。22歳で日本大学に入学している。箱根駅伝を4度走り、下級生の時は2区を2回走っている。そして4年時には1区で区間新記録を出して卒業する(当時25歳で選手としてピークに近いので、大学生離れしていた部分はある)。その後実業団選手として再び活躍し、実業団(選手として最後に所属したスズキ)でコーチ→監督を勤めた
 1994年、母校日本大学のコーチに就任。当時の日本大学はシード校ではあったものの衰退期に差し掛かっており、立て直すべく西氏に白羽の矢が立ったのだ。監督就任1年目の箱根駅伝は上位進出を果たすものの、2年目の箱根駅伝では2区を走った水田貴士さんのアクシデントもあり13位(完走チーム中最下位)に終わってしまう。翌年の箱根駅伝予選会では強豪校が集ったこともあり、連続出場は48で途絶え、大学史上初めて予選会で敗退という憂き目に遭う(ちなみに当時の1年生が次期監督となる山本佑樹氏である)。翌年は山本選手を中心にギリギリで箱根駅伝予選会を突破すると本戦で8位に食い込み、3年ぶりにシード権を獲得する。以降4年間シード権を獲得し、浮上のきっかけを掴んだものの2001年にコーチを解任。日本大学での指導は志し半ばで呆気なく終わった
 同年7月、明治大学のコーチに就任。当時の明治大学の様子を西氏は「バイトや茶髪はOK。門限もない。朝練にも参加しない。まるで同好会。箱根駅伝を目指すには時間がかかる」と振り返っている。そのような状況から改革を行い、指導してから4年目となる2004年10月の箱根駅伝予選会で3位と躍進し14年ぶりの本大会出場を勝ち取る。そして4年後の箱根駅伝で43年ぶりとなるシード権を獲得。以来7年連続でシード権を獲得し続けてきた

・山本佑樹さんはどんな人?
 西氏の後を受け、監督に就任する山本佑樹氏。日本大学の成熟期を支えたスーパーエースという印象が強いが、実は常葉学園橘高校時代は静岡県でトップに立つことができなかった。理由は同学年に浜松商業(同じ静岡県の高校)の古田哲弘選手(元5000m高校記録+全国高校駅伝1区日本人最高記録保持者。箱根駅伝現8区区間記録保持者)がいたからである
 大学3年時の箱根駅伝。同年度の日本選手権10000mで入賞した山本選手は(2年連続で)2区にエントリーされる。同じく2区にエントリーされた古田選手にリベンジする機会を得た山本選手はその機会を見事に生かし、区間6位の力走で古田選手に勝利する。その後日本インカレ優勝をはじめとした実績をひっさげ、学生長距離界の代表選手となる。しかし4年時の箱根駅伝では足の不調からまさかの欠場。古田選手にようやく勝利できた2区が最後の箱根駅伝になってしまった
 卒業後、宗茂氏が(当時)監督を勤めていた旭化成に入社するものの怪我を繰り返してしまい6年で引退。引退後はコーチとして東京に住む旭化成の選手の指導をしてきた。転機が訪れたのは昨年春。かつての師である西氏に招聘される形で明治大学のコーチに就任。そこから僅か9ヶ月での監督就任という形になった。昨年10月の箱根駅伝予選会ではまさかの13位に終わってしまい、連続出場が9で途絶えてしまった。再起を誓うべく山本監督の挑戦が始まる
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